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2014年11月19日水曜日

「身体拘束」

逮捕や、勾留は、人の身体の自由を制圧する行為です。人の身体を拘束する行為です。
逮捕は犯罪です。ただし、警察官などが容疑者を捕まえるときには、特別に許されています。

一般には、悪いことをしたんだから、逮捕されて当然だと思われています。
しかし、それは違います。
証拠によって犯罪が証明され、裁判で有罪判決を受けるまでは、人は「無罪の推定」を受けます。
現実に、逮捕・勾留された人も、多くの人が不起訴(裁判を受けない)処分となっています。
逮捕された時には派手に報道される事件も、不起訴となっている事件は少なくありません。
逮捕・勾留される人が悪い人であるとは限らないのです。

では、なぜ逮捕・勾留が正当化されるんでしょうか。

逮捕・勾留は、一般的に犯罪の嫌疑があり、「罪証隠滅」や「逃亡」をする相当な疑いがあるときになされることになっています。わかりやすくいいかえると
 「今は疑わしいだけで有罪とは限らないけども、釈放しておくと証拠を隠されたり逃げたりする可能性が高いから、拘束しておく」
ということです。
逆にいえば、そういう可能性が低ければ、家から取調べに通い、家から裁判に通うということで全く問題はありません。裁判で有罪とされれば、刑務所へ行って罪をつぐなえばいいわけです。
裁判で有罪判決を受けるまでは無罪の推定を受ける市民を拘束するのですから、拘束の条件は厳格でなければならないはずです。証拠隠滅や逃亡のおそれは、具体的なものでなければならないはずです。

しかし、現実はそうなっていません。
極めて抽象的な証拠隠滅のおそれや逃亡のおそれがあると認定されて、逮捕・勾留されています。そして、ずっと拘束されたまま裁判を受けるケースも多くあります。
「罪証隠滅や逃亡のおそれは読めない。けれども、一度されてしまったら取り返しがつかないので拘束するのだ」と、ある検察官(裁判官だったかもしれません)は言っていました。

私は、2年前、日弁連に派遣されたチームの一人として、イギリスの刑事事件の現状視察に行きました。イギリスでは、取調べを受ける前に弁護人の援助を受ける権利が保障されています。それを学びに行くことが目的でした。
もちろんその点は勉強になったのですが、私がほかに大きな衝撃を受けたのは、身体拘束の在り方でした。どんどん逮捕された容疑者が釈放されていくのです。逮捕された容疑者のうち、拘束されたまま裁判を受けることになるのは、10パーセント程度だということでした。
そして、ある裁判官はこう言っていました。
「罪証隠滅や逃亡のおそれは読めない。将来のことだからね。わからないからこそ、釈放するのが原則なんだ。もし何かあったら、その時にペナルティを課せばいい」
実際に罪証隠滅や逃亡といった事態が起こるのは、多くはないそうです。

どちらが、「無罪の推定」にそぐう考え方でしょうか。
私は弁護人としてたくさんの事件にかかわりました。本当に、不必要な拘束をされているという事件を多く経験しました。そして、そのことを全く理解していない、検察官や裁判官の対応を目にしました。
身体拘束の現状は変わらなければなりません。
個人的には、数ある刑事司法の問題点の中で、この問題が最も大きな課題ではないかと思っています。無用な逮捕、勾留がなくなるだけで、冤罪は減ると思います。無駄な身体拘束がなくなって初めて、市民一人一人が、公平な裁判を受ける権利を享受できると思います。
 

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