前回の更新より1ヶ月経ってしまいました。
新しい事件のご相談やご依頼,裁判員裁判の準備・法廷で忙殺されており,更新ができませんでした。
裁判員裁判は国選弁護事件でした。当然ですが,全力を尽くしました。依頼人も、結果には満足していました。私選弁護も国選弁護も担当しますが,変わらずすべて全力を尽くします。もちろんこれは,偉そうに言うようなことではありません。当然のことです。しかし,巷には,「私選の方が国選よりいい」というような噂というか情報というかが,流れているようです。
そこで,そのことを今日は書きたいと思います。
タイトルをつけておいて何だという感じですが,「弁護士の選び方」なんて大上段の話をする度量はありません。ただ,日々刑事事件の弁護士の選び方についてよく聞く誤解について話したいと思います。
その1 私選弁護の方が国選弁護よりも優れている??
よく言われますが,必ずしもそうとは限りません。
私は,私選弁護人が解任された事件で国選を担当したことがありますが,解任前の私選弁護人の活動が,私から見れば質が悪いと感じられたことが多々ありました。
逆に,国選弁護人の活動に不満があるとご相談にいらした方から話を聞き,国選弁護人の先生は良くやっている,変える必要はないと助言をしたこともあります。
あくまで,弁護の質は,私選か国選かということではなく,その弁護士の技量によります。
その2 ヤメ検弁護士を選任した方がよい??
これも良く聞く話です。
「ヤメ検」とは,検察官をやっていたが,引退し,弁護士になった人のことをいいます。
こういう話は,「「ヤメ検」は古巣である検察官にパイプを持っている,便宜を図ってもらえる」という意味でされることがあります。しかし,これは明らかに誤りです。検察官は,そんなに甘くありません。
一方で,もと検察官ですから,捜査の実情はよく知っていると思われます。その知識が,弁護活動に役立つこともあるでしょうから,一概に誤りであるともいえません。
結局,ヤメ検弁護士を選任した方がいいかどうかという点についても,個別の弁護士の力量によります。検察官的な視点ではなく,「依頼人のため」という弁護人的な視点を正しく持てているかについても,注意する必要があるかも知れません。
その3 ベテラン弁護士を選任した方がよい?
刑事弁護は,年を取るだけでできるようになるものではありません。
素晴らしい熱意を持って刑事弁護に取り組む若手はたくさんいますし,それで結果を出す若手はたくさんいます。
他方で,年を重ねる中でろくに勉強もせず,適当な弁護活動を行う弁護士をたくさん見ています。
もちろん,長年刑事弁護に携わり,研鑽を怠らず,輝かしい弁護活動を行うベテラン弁護士を私もたくさん知っていて,とても尊敬しています。
結局,どういう年齢の弁護士を選ぶかではなく,熱意や技量を持っている弁護士を選ぶということの方が重要です。
その4 インターネットで「刑事に強い」と謳っている事務所なら大丈夫?
昨今,弁護士の広告が解禁され,多くの法律事務所がインターネットを用いた広告宣伝をおこなっています。
しかし、ここで言っておきたいのは、インターネット上で刑事事件について大々的に広告している事務所であれば大丈夫だとは限らないということです。
考えてみれば当然のことです。広告宣伝にお金をかける弁護士が、必ずしも刑事事件の弁護能力に長けているということにはならないのは当たり前です。
実際に、こういった広告を大々的に行っている事務所について、専門家から見れば、その能力に疑問を感じざるを得ない事務所はあります。一方で、ホームページで宣伝をしている事務所でも、専門家から見てもきわめて評価の高い弁護士が所属している事務所もあります。もっというと、ホームページを持っていない法律事務所あるいは弁護士で、すばらしい能力を持った刑事弁護人といわれている弁護士も何人も知っています。
しかし、それを、一般の方がインターネットを見て判断するのは、ほぼ不可能に近い状況だとおもいます。
インターネットだけではなく、実際に弁護士その人を見ることが重要です。また、私自身過去の依頼人の紹介や、ほかの弁護士の紹介でご依頼をいただくケースもたくさんあります。弁護士を探す方法はインターネットだけではないということも頭に入れておくほうがいいと思います。
さて,ここまで,「結局,人による」というような回答しかしてこなかったわけですが,情報も限られた中で、どうすればいいのでしょうか。
それは、もし弁護士選びに困った場合には、まず弁護士に直接会うことです。国選だから信用できないと即断したり、ヤメ検を選べば大丈夫と即断したりするのは危険です。インターネットを用いて探した場合も、まずは弁護士と話してください。そして、できれば比べてください。
限られた時間の中で、弁護士選びは簡単ではないと思います。そういう方がこの記事にたどり着き、少しでも助けになれば幸いと思います。
・・・・・以下、傍論で少し難しい話です・・・・・
なぜ、「国選より私選」とか「ヤメ検は検察官にパイプがある」とか、そういう何の根拠もないうわさが蔓延するのでしょうか。
もちろん、実際にろくな弁護活動をしない国選弁護士はいるんでしょうし、根拠がゼロだとはいいませんが、あまりにも「おおざっぱな」判断すぎます。
私の仮説は、「精緻化見込モデル」による説明です。
「精緻化見込モデル」は社会心理学上の概念で、説得や広告などに接した人の態度の決め方には2種類あるということを提示したモデルです。マーケティング等の学問にも応用されます。
この2種類の態度の決め方のひとつは「中心ルート」。発信された説得や広告の内容をきちんと分析し、自分の記憶や経験・知識と関連付けて自分の態度決めるルートを言います。たとえばラケットを買うときに「このラケットは重さ○○グラムで、バランスはトップライトだから自分のプレーに合っている」という判断をすることをいいます。
もうひとつは「周辺ルート」。これは、発信された説得や広告の内容について詳細な検討を行わずに周辺的な情報から態度決定をすることをいいます。たとえば、「錦織選手が使っているから、自分もこのラケットを使おう」と判断することです。
さて、このうち、中心ルートは、説得や広告の内容を十分に理解することができ、かつモチベーションの高い場合に用いられると考えています。一方で、周辺ルートは、説得や広告の内容がその人にとって理解不能な場合に用いられると考えられています。上のラケットのたとえも、わかった方とそうでなかった方がいらっしゃるかと思いますが、ラケットに関する細かな情報がわからない方は、どれを買っていいか分析できないので、錦織選手のラケットを選ぶかもしれません。他方で、日常生活上の食事などの判断は、皆さんも中心ルートを用いて判断する場合が多いのではないかとおもいます。
弁護士を選ぶ場合はどうでしょうか。
どの弁護士が刑事弁護の能力があるのかなんてことは、はっきり言ってきわめて専門的です。一人一人の弁護士の力量や能力を精密に分析して判断することが難しいからこそ、周辺ルートを用いて、「私選がいい」「ベテランだから」「ネットで刑事に強いって出てるから大丈夫」という単純な判断になってしまうわけです。
私たち弁護士には、何が優れた弁護活動かについて、あるいはどのように弁護士を選ぶかについて、一般の方に正しく、わかりやすく伝える使命があると思います。一人でも多くの一般市民が、少しでも正しく弁護士を選べるような情報を得ていくことで、徐々に、弁護士選びのマーケットが正常に機能するようになると思います。
ページビューの合計
2015年3月18日水曜日
2015年2月11日水曜日
「刑事事件の弁護士費用」
近時,弁護士の広告宣伝が解禁され,インターネット上でも,様々な法律事務所が広告を行うようになりました。
また,弁護士費用の設定についても,各法律事務所で様々な個性が見られます。
以前は,弁護士会が,各弁護士の報酬の標準を定める基準を作り,多くの弁護士が,これに従った価格設定をしていました。しかし,数年前,この基準は撤廃され,弁護士費用の設定は自由になりました。
費用の設定が自由であることはとても重要です。
費用の設定が自由であることによって,各弁護士事務所が,よりたくさんの人にご相談に来ていただくことができるような価格設定を競争します。価格設定に対して,よりよい法的サービスを提供できるよう,法的サービスの質をも向上させます。
こうして,全体として見れば,一般の方々によりよいサービスをより安価で提供することができるようになりますし,依頼人から見れば,より良い法的サービスにアクセスすることが容易になるのです(もちろん安いばかりがいいというわけではありませんが)。
このように,一般の方々がよりよい弁護士の法的サービスを受けられるようになるために,価格設定の自由は非常に重要なことだと思っているのですが,近時,「この価格設定は問題だろう!」と思う価格設定を目にすることがあります。
その1 保釈が認められた場合,保釈保証金の●パーセントを報酬とする
保釈とは,起訴後,拘束されている被告人を釈放するための手続です。一定の保釈保証金を裁判所に収めることで,裁判まで拘束を解放されるのです。
この保釈保証金の金額は,裁判所が決めますが,その際に弁護人が裁判所と交渉するのが一般です。依頼人の負担が少しでも少なくなるよう,交渉します。裁判官が200万といったら,150万で何とかなりませんか,と交渉します。
ここで,保釈金の額の何パーセント,という報酬基準だったらどうでしょうか。弁護人が交渉すればするほど,弁護人の報酬が下がってしまいます。弁護人に,依頼人のための粘り強い交渉が期待できるでしょうか。
弁護人は,依頼人の利益を追求する義務を負っています。ですから,弁護士の報酬は,依頼人のための活動と連動する必要があります。相手から回収した額の●パーセント,とか,無罪の場合は●円,という報酬の定め方であればよいのですが,依頼人が負担する保釈保証金を基準に報酬を決めると,依頼人の利益と弁護士の利益が相反してしまうのです。
弁護士は,依頼人の利益と自分の利益が相反する事件を受任してはいけない義務があります。弁護人の役割は,依頼人の利益のために活動することだからです。事件自体の利益が反しているわけではありませんが,具体的な弁護活動の場面で依頼人との間に利益相反が起こるような価格設定は,このような弁護人の義務・役割に反していると思います。
その2 捜査弁護の着手金●円(ただし,接見3回まで)
捜査弁護とは,裁判になる前の弁護をいいます。身体拘束されている依頼人に弁護人が会いに行って(「接見」といいます),取調べに対する対応をしたり,身体拘束から解放されるための活動をするのが中心になります。ですから,接見は捜査弁護の最も基本的な活動です。
あなたが歯医者に行って「痛かったら,左手を挙げて教えて下さいね。ただし,3回まで。4回目からは,追加で費用が発生します。」といわれたらどうでしょう。痛いって言いにくくなりますよね。そもそもそんな歯医者には次からは行かないかも知れませんが。
接見も同じです。犯罪を疑われ,拘束された依頼人は孤独です。心の「痛い」を抱えています。一度でも多く接見に来て欲しい。しかし,3回までしか基本料金で来てもらえないのなら,接見に来て欲しい,と言うのを躊躇してしまいます。そういう状況で,果たして依頼人のためにベストな弁護ができるのでしょうか。
そもそも,捜査段階の弁護活動で,接見3回で十分な活動をできる事件は,少なくとも私の経験上は,ありません。正しい弁護活動をすれば,最初の3日で使い切ってしまう事件もたくさんあると思います。
弁護人には,受任した事件について,依頼人のために最善の努力をする義務を負っています。受任しているにもかかわらず,最大限の弁護活動を躊躇させるような価格設定は,この義務に反するおそれがあるのではないかと思っています。もし4回以上接見するには費用が十分でないなら,もっと最初から高い費用をいただいて,この費用でできることはすべてやる,接見回数の制限などもしないというほうが,よっぽど健全だと思います。
刑事事件の弁護士費用の設定は自由であるべきです。
しかし,それは,「依頼人のため」という弁護士の本分に反するようなものであってはいけないと思います。
なお,私及び私の所属する事務所では,保釈の報酬はいただいておりませんし,接見回数の制限はありません。
事件自体の着手金をいただけば,必要な弁護活動はすべて行います。
また,弁護士費用の設定についても,各法律事務所で様々な個性が見られます。
以前は,弁護士会が,各弁護士の報酬の標準を定める基準を作り,多くの弁護士が,これに従った価格設定をしていました。しかし,数年前,この基準は撤廃され,弁護士費用の設定は自由になりました。
費用の設定が自由であることはとても重要です。
費用の設定が自由であることによって,各弁護士事務所が,よりたくさんの人にご相談に来ていただくことができるような価格設定を競争します。価格設定に対して,よりよい法的サービスを提供できるよう,法的サービスの質をも向上させます。
こうして,全体として見れば,一般の方々によりよいサービスをより安価で提供することができるようになりますし,依頼人から見れば,より良い法的サービスにアクセスすることが容易になるのです(もちろん安いばかりがいいというわけではありませんが)。
このように,一般の方々がよりよい弁護士の法的サービスを受けられるようになるために,価格設定の自由は非常に重要なことだと思っているのですが,近時,「この価格設定は問題だろう!」と思う価格設定を目にすることがあります。
その1 保釈が認められた場合,保釈保証金の●パーセントを報酬とする
保釈とは,起訴後,拘束されている被告人を釈放するための手続です。一定の保釈保証金を裁判所に収めることで,裁判まで拘束を解放されるのです。
この保釈保証金の金額は,裁判所が決めますが,その際に弁護人が裁判所と交渉するのが一般です。依頼人の負担が少しでも少なくなるよう,交渉します。裁判官が200万といったら,150万で何とかなりませんか,と交渉します。
ここで,保釈金の額の何パーセント,という報酬基準だったらどうでしょうか。弁護人が交渉すればするほど,弁護人の報酬が下がってしまいます。弁護人に,依頼人のための粘り強い交渉が期待できるでしょうか。
弁護人は,依頼人の利益を追求する義務を負っています。ですから,弁護士の報酬は,依頼人のための活動と連動する必要があります。相手から回収した額の●パーセント,とか,無罪の場合は●円,という報酬の定め方であればよいのですが,依頼人が負担する保釈保証金を基準に報酬を決めると,依頼人の利益と弁護士の利益が相反してしまうのです。
弁護士は,依頼人の利益と自分の利益が相反する事件を受任してはいけない義務があります。弁護人の役割は,依頼人の利益のために活動することだからです。事件自体の利益が反しているわけではありませんが,具体的な弁護活動の場面で依頼人との間に利益相反が起こるような価格設定は,このような弁護人の義務・役割に反していると思います。
その2 捜査弁護の着手金●円(ただし,接見3回まで)
捜査弁護とは,裁判になる前の弁護をいいます。身体拘束されている依頼人に弁護人が会いに行って(「接見」といいます),取調べに対する対応をしたり,身体拘束から解放されるための活動をするのが中心になります。ですから,接見は捜査弁護の最も基本的な活動です。
あなたが歯医者に行って「痛かったら,左手を挙げて教えて下さいね。ただし,3回まで。4回目からは,追加で費用が発生します。」といわれたらどうでしょう。痛いって言いにくくなりますよね。そもそもそんな歯医者には次からは行かないかも知れませんが。
接見も同じです。犯罪を疑われ,拘束された依頼人は孤独です。心の「痛い」を抱えています。一度でも多く接見に来て欲しい。しかし,3回までしか基本料金で来てもらえないのなら,接見に来て欲しい,と言うのを躊躇してしまいます。そういう状況で,果たして依頼人のためにベストな弁護ができるのでしょうか。
そもそも,捜査段階の弁護活動で,接見3回で十分な活動をできる事件は,少なくとも私の経験上は,ありません。正しい弁護活動をすれば,最初の3日で使い切ってしまう事件もたくさんあると思います。
弁護人には,受任した事件について,依頼人のために最善の努力をする義務を負っています。受任しているにもかかわらず,最大限の弁護活動を躊躇させるような価格設定は,この義務に反するおそれがあるのではないかと思っています。もし4回以上接見するには費用が十分でないなら,もっと最初から高い費用をいただいて,この費用でできることはすべてやる,接見回数の制限などもしないというほうが,よっぽど健全だと思います。
刑事事件の弁護士費用の設定は自由であるべきです。
しかし,それは,「依頼人のため」という弁護士の本分に反するようなものであってはいけないと思います。
なお,私及び私の所属する事務所では,保釈の報酬はいただいておりませんし,接見回数の制限はありません。
事件自体の着手金をいただけば,必要な弁護活動はすべて行います。
2015年1月12日月曜日
「冤罪」
ブログをいつもご覧の皆様,明けましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。
さて,新年初の投稿ということで,初心に返るというわけではないですが,昔の話をしたいと思います。
話自体は,とてもくだらない話です。
僕が小学生くらいの時でしょうか。
僕は袋入りのお菓子を持っていました。
小さな袋に入ったそのお菓子を,僕は食べていました。
お菓子の量も少なくなってきました。
僕は,残りのお菓子を食べてしまおうと,袋に口をつけて上を向きました。
お菓子を一気に口に流し込もうとしました。
その瞬間でした。
家族の一人が,僕に向かって「弟の分も残しておきなさい」と言ってきました。
しかし,その言葉が聞こえた瞬間には,もう袋の中のお菓子は僕の口に流れているところでした。
とっさに袋を口から離しましたが,お菓子はすべて口に入ってしまいました。
それ自体は,弟に申し訳ないと思いました。
しかし悲劇はその先にありました。
僕に残しておきなさいと言った家族が,
「残しておきなさいと言われたから,独り占めするためにお菓子を全部口に入れた」
という主張をしてきたのです。
争点は,「残しておきなさい」という発言と,お菓子を口に流し込んだ事実の先後関係です。
僕は,必死で,聞こえる前に食べてしまったんだと訴えました。
しかし,聞いてもらえませんでした。
泣きながら,自分は無実だと(いう言葉遣いはしてませんが)主張しました。
しかし,受け入れられませんでした。
僕は,弟に取られないようにお菓子を独り占めしたバカ兄貴ということになってしまいました。
僕は当事者ですから,真実を知っています。
この事件は冤罪です。
それ以来,僕は,証拠もないのに何かを決めつけることについて,大きな嫌悪感を抱くようになりました。
はい,くだらない話ですね・・・
でも,僕がいま弁護士として活動をする中で「やっていない」という依頼人の悲痛な訴えを聞くとき,このエピソードが頭をよぎることがあります。もしかしたら,弁護士として今やっていることの根底に,このエピソードの経験があるかもしれません。
刑事事件は,過去の事実があったかなかったかを判断します。ですから,明確な証拠が無い場合も多く,断片的な証拠や,人の証言によって事実があったかなかったかを判断するのです。
そして,時に,僕の嫌悪する「決めつけ」が起こります。
決めつけによって,犯罪者とされてしまったり,刑務所に行かなければならなかったり,場合によっては死ななければならなかったりするようなことがあれば,それはくだらない話ではとても済まされません。
こういう悲劇が起こらないよう,誰もが,当事者の話に真摯に耳を傾けなければいけないと思います。捜査機関や裁判官,もちろん弁護人もです。
普段の弁護活動であれば,依頼人の話を聞くことを怠ることはありません。
それと同じで,僕が将来父親になったりすることがあったら,感情的にならずに,きちんと子どもの言い分にも耳を傾けてあげようと思います。できるか不安ですが・・・(笑)
今年もどうぞよろしくお願いいたします。
さて,新年初の投稿ということで,初心に返るというわけではないですが,昔の話をしたいと思います。
話自体は,とてもくだらない話です。
僕が小学生くらいの時でしょうか。
僕は袋入りのお菓子を持っていました。
小さな袋に入ったそのお菓子を,僕は食べていました。
お菓子の量も少なくなってきました。
僕は,残りのお菓子を食べてしまおうと,袋に口をつけて上を向きました。
お菓子を一気に口に流し込もうとしました。
その瞬間でした。
家族の一人が,僕に向かって「弟の分も残しておきなさい」と言ってきました。
しかし,その言葉が聞こえた瞬間には,もう袋の中のお菓子は僕の口に流れているところでした。
とっさに袋を口から離しましたが,お菓子はすべて口に入ってしまいました。
それ自体は,弟に申し訳ないと思いました。
しかし悲劇はその先にありました。
僕に残しておきなさいと言った家族が,
「残しておきなさいと言われたから,独り占めするためにお菓子を全部口に入れた」
という主張をしてきたのです。
争点は,「残しておきなさい」という発言と,お菓子を口に流し込んだ事実の先後関係です。
僕は,必死で,聞こえる前に食べてしまったんだと訴えました。
しかし,聞いてもらえませんでした。
泣きながら,自分は無実だと(いう言葉遣いはしてませんが)主張しました。
しかし,受け入れられませんでした。
僕は,弟に取られないようにお菓子を独り占めしたバカ兄貴ということになってしまいました。
僕は当事者ですから,真実を知っています。
この事件は冤罪です。
それ以来,僕は,証拠もないのに何かを決めつけることについて,大きな嫌悪感を抱くようになりました。
はい,くだらない話ですね・・・
でも,僕がいま弁護士として活動をする中で「やっていない」という依頼人の悲痛な訴えを聞くとき,このエピソードが頭をよぎることがあります。もしかしたら,弁護士として今やっていることの根底に,このエピソードの経験があるかもしれません。
刑事事件は,過去の事実があったかなかったかを判断します。ですから,明確な証拠が無い場合も多く,断片的な証拠や,人の証言によって事実があったかなかったかを判断するのです。
そして,時に,僕の嫌悪する「決めつけ」が起こります。
決めつけによって,犯罪者とされてしまったり,刑務所に行かなければならなかったり,場合によっては死ななければならなかったりするようなことがあれば,それはくだらない話ではとても済まされません。
こういう悲劇が起こらないよう,誰もが,当事者の話に真摯に耳を傾けなければいけないと思います。捜査機関や裁判官,もちろん弁護人もです。
普段の弁護活動であれば,依頼人の話を聞くことを怠ることはありません。
それと同じで,僕が将来父親になったりすることがあったら,感情的にならずに,きちんと子どもの言い分にも耳を傾けてあげようと思います。できるか不安ですが・・・(笑)
2014年11月19日水曜日
「身体拘束」
逮捕や、勾留は、人の身体の自由を制圧する行為です。人の身体を拘束する行為です。
逮捕は犯罪です。ただし、警察官などが容疑者を捕まえるときには、特別に許されています。
一般には、悪いことをしたんだから、逮捕されて当然だと思われています。
しかし、それは違います。
証拠によって犯罪が証明され、裁判で有罪判決を受けるまでは、人は「無罪の推定」を受けます。
現実に、逮捕・勾留された人も、多くの人が不起訴(裁判を受けない)処分となっています。
逮捕された時には派手に報道される事件も、不起訴となっている事件は少なくありません。
逮捕・勾留される人が悪い人であるとは限らないのです。
では、なぜ逮捕・勾留が正当化されるんでしょうか。
逮捕・勾留は、一般的に犯罪の嫌疑があり、「罪証隠滅」や「逃亡」をする相当な疑いがあるときになされることになっています。わかりやすくいいかえると
「今は疑わしいだけで有罪とは限らないけども、釈放しておくと証拠を隠されたり逃げたりする可能性が高いから、拘束しておく」
ということです。
逆にいえば、そういう可能性が低ければ、家から取調べに通い、家から裁判に通うということで全く問題はありません。裁判で有罪とされれば、刑務所へ行って罪をつぐなえばいいわけです。
裁判で有罪判決を受けるまでは無罪の推定を受ける市民を拘束するのですから、拘束の条件は厳格でなければならないはずです。証拠隠滅や逃亡のおそれは、具体的なものでなければならないはずです。
しかし、現実はそうなっていません。
極めて抽象的な証拠隠滅のおそれや逃亡のおそれがあると認定されて、逮捕・勾留されています。そして、ずっと拘束されたまま裁判を受けるケースも多くあります。
「罪証隠滅や逃亡のおそれは読めない。けれども、一度されてしまったら取り返しがつかないので拘束するのだ」と、ある検察官(裁判官だったかもしれません)は言っていました。
私は、2年前、日弁連に派遣されたチームの一人として、イギリスの刑事事件の現状視察に行きました。イギリスでは、取調べを受ける前に弁護人の援助を受ける権利が保障されています。それを学びに行くことが目的でした。
もちろんその点は勉強になったのですが、私がほかに大きな衝撃を受けたのは、身体拘束の在り方でした。どんどん逮捕された容疑者が釈放されていくのです。逮捕された容疑者のうち、拘束されたまま裁判を受けることになるのは、10パーセント程度だということでした。
そして、ある裁判官はこう言っていました。
「罪証隠滅や逃亡のおそれは読めない。将来のことだからね。わからないからこそ、釈放するのが原則なんだ。もし何かあったら、その時にペナルティを課せばいい」
実際に罪証隠滅や逃亡といった事態が起こるのは、多くはないそうです。
どちらが、「無罪の推定」にそぐう考え方でしょうか。
私は弁護人としてたくさんの事件にかかわりました。本当に、不必要な拘束をされているという事件を多く経験しました。そして、そのことを全く理解していない、検察官や裁判官の対応を目にしました。
身体拘束の現状は変わらなければなりません。
個人的には、数ある刑事司法の問題点の中で、この問題が最も大きな課題ではないかと思っています。無用な逮捕、勾留がなくなるだけで、冤罪は減ると思います。無駄な身体拘束がなくなって初めて、市民一人一人が、公平な裁判を受ける権利を享受できると思います。
逮捕は犯罪です。ただし、警察官などが容疑者を捕まえるときには、特別に許されています。
一般には、悪いことをしたんだから、逮捕されて当然だと思われています。
しかし、それは違います。
証拠によって犯罪が証明され、裁判で有罪判決を受けるまでは、人は「無罪の推定」を受けます。
現実に、逮捕・勾留された人も、多くの人が不起訴(裁判を受けない)処分となっています。
逮捕された時には派手に報道される事件も、不起訴となっている事件は少なくありません。
逮捕・勾留される人が悪い人であるとは限らないのです。
では、なぜ逮捕・勾留が正当化されるんでしょうか。
逮捕・勾留は、一般的に犯罪の嫌疑があり、「罪証隠滅」や「逃亡」をする相当な疑いがあるときになされることになっています。わかりやすくいいかえると
「今は疑わしいだけで有罪とは限らないけども、釈放しておくと証拠を隠されたり逃げたりする可能性が高いから、拘束しておく」
ということです。
逆にいえば、そういう可能性が低ければ、家から取調べに通い、家から裁判に通うということで全く問題はありません。裁判で有罪とされれば、刑務所へ行って罪をつぐなえばいいわけです。
裁判で有罪判決を受けるまでは無罪の推定を受ける市民を拘束するのですから、拘束の条件は厳格でなければならないはずです。証拠隠滅や逃亡のおそれは、具体的なものでなければならないはずです。
しかし、現実はそうなっていません。
極めて抽象的な証拠隠滅のおそれや逃亡のおそれがあると認定されて、逮捕・勾留されています。そして、ずっと拘束されたまま裁判を受けるケースも多くあります。
「罪証隠滅や逃亡のおそれは読めない。けれども、一度されてしまったら取り返しがつかないので拘束するのだ」と、ある検察官(裁判官だったかもしれません)は言っていました。
私は、2年前、日弁連に派遣されたチームの一人として、イギリスの刑事事件の現状視察に行きました。イギリスでは、取調べを受ける前に弁護人の援助を受ける権利が保障されています。それを学びに行くことが目的でした。
もちろんその点は勉強になったのですが、私がほかに大きな衝撃を受けたのは、身体拘束の在り方でした。どんどん逮捕された容疑者が釈放されていくのです。逮捕された容疑者のうち、拘束されたまま裁判を受けることになるのは、10パーセント程度だということでした。
そして、ある裁判官はこう言っていました。
「罪証隠滅や逃亡のおそれは読めない。将来のことだからね。わからないからこそ、釈放するのが原則なんだ。もし何かあったら、その時にペナルティを課せばいい」
実際に罪証隠滅や逃亡といった事態が起こるのは、多くはないそうです。
どちらが、「無罪の推定」にそぐう考え方でしょうか。
私は弁護人としてたくさんの事件にかかわりました。本当に、不必要な拘束をされているという事件を多く経験しました。そして、そのことを全く理解していない、検察官や裁判官の対応を目にしました。
身体拘束の現状は変わらなければなりません。
個人的には、数ある刑事司法の問題点の中で、この問題が最も大きな課題ではないかと思っています。無用な逮捕、勾留がなくなるだけで、冤罪は減ると思います。無駄な身体拘束がなくなって初めて、市民一人一人が、公平な裁判を受ける権利を享受できると思います。
2014年11月10日月曜日
「ルール その2」
世の中にはたくさんのルールがあります。
時に、ルールは、「~してよい」という形をとることもあります。
先日は、「~してはいけない」ルールについてお話ししましたが、逆のルールについて思うところをお話ししたいと思います。
本来的に、人は自由です。
近代国家において、人は、自由な個人であることが想定されています。
国家によって生かされているわけではありません。
ルールによって生かされているわけでもありません。
ですから、いちいち「~してよい」なんて言われなくても、そんなおせっかいをいわれなくても、人は基本的に自由なのです。
(ルールが世界を作っているスポーツやゲームは違いますが)
では、そういう世界の中で「~してよい」というルールの存在意義は何なのか。
私は、そのようなルールが意味を持つためには、「~してもとやかく言われない」「~しても不利益を受けない」という意味を持たなければならないと思っています。
刑事事件のルールを定めた刑事訴訟法には、「黙秘権」という権利が定められています。
黙秘権の意義や正当性、重要性についてここで述べることはしません。
この権利は、簡単にいえば、「取調べや、裁判で、黙っていてよい」というルールです。
しかし、これを文字通りに考えれば、これはあまりにも当然です。人の口に手を突っ込んでも言葉は出てきませんから、黙りたかったら、本人が黙ればいいのです。「黙っていてよい」などと言われなくても、黙ることは少なくとも物理的には可能です。
ですから、「黙っていてよい」というルールは、「黙っていてもとやかくいわれない」「黙っていることによって不利益を受けない」という意味を持たなければなりません。
しかし、現実の事件では、それとは異なった扱いを受けることがあります。
捜査機関は、取調べのはじめに「取り調べでは、黙っていてもいい」と告知しなければならないと決められています。実際、告知は行われます。しかし、多くの捜査官は、そう言った舌の根も乾かぬうちに、「黙秘していると不利になるぞ」「黙っていると反省が見えないから重い刑になる」などとまくし立てます。黙っていることに、とやかく言い続けます。不利益になりかねないと示唆します。
私はしばしば黙秘権の行使を防御戦術として選択します。そのような場合、捜査機関が黙秘に対して上のような圧力をかけてこなかったことは、たったの一度もありません。
しかし、本当に黙秘権の行使が不利益を招いたと感じたことも、たったの一度もありません。
捜査機関の圧力は、けっきょく、多くの場合、脅しあるいは虚言です。
黙秘権を行使している被疑者を怒鳴りつけている間に、ほかの客観的な証拠を集めたり、証明の方法を考えることに時間を使ったほうがいいと思います。
そうしなければ、真犯人をどんどん逃がしてしまうかもしれない。
そうしなければ、本当は犯人でない被疑者が屈服し、冤罪が生まれてしまうかもしれない。
ルールですから、そのルールがあることによって不都合な当事者も、そのルールを尊重しなければならないはずです。
「~してよい」というルールが、「~してもとやかく言われない」「~しても不利益を受けない」という意味を持ち続けられるように、明日も接見に行きます。
時に、ルールは、「~してよい」という形をとることもあります。
先日は、「~してはいけない」ルールについてお話ししましたが、逆のルールについて思うところをお話ししたいと思います。
本来的に、人は自由です。
近代国家において、人は、自由な個人であることが想定されています。
国家によって生かされているわけではありません。
ルールによって生かされているわけでもありません。
ですから、いちいち「~してよい」なんて言われなくても、そんなおせっかいをいわれなくても、人は基本的に自由なのです。
(ルールが世界を作っているスポーツやゲームは違いますが)
では、そういう世界の中で「~してよい」というルールの存在意義は何なのか。
私は、そのようなルールが意味を持つためには、「~してもとやかく言われない」「~しても不利益を受けない」という意味を持たなければならないと思っています。
刑事事件のルールを定めた刑事訴訟法には、「黙秘権」という権利が定められています。
黙秘権の意義や正当性、重要性についてここで述べることはしません。
この権利は、簡単にいえば、「取調べや、裁判で、黙っていてよい」というルールです。
しかし、これを文字通りに考えれば、これはあまりにも当然です。人の口に手を突っ込んでも言葉は出てきませんから、黙りたかったら、本人が黙ればいいのです。「黙っていてよい」などと言われなくても、黙ることは少なくとも物理的には可能です。
ですから、「黙っていてよい」というルールは、「黙っていてもとやかくいわれない」「黙っていることによって不利益を受けない」という意味を持たなければなりません。
しかし、現実の事件では、それとは異なった扱いを受けることがあります。
捜査機関は、取調べのはじめに「取り調べでは、黙っていてもいい」と告知しなければならないと決められています。実際、告知は行われます。しかし、多くの捜査官は、そう言った舌の根も乾かぬうちに、「黙秘していると不利になるぞ」「黙っていると反省が見えないから重い刑になる」などとまくし立てます。黙っていることに、とやかく言い続けます。不利益になりかねないと示唆します。
私はしばしば黙秘権の行使を防御戦術として選択します。そのような場合、捜査機関が黙秘に対して上のような圧力をかけてこなかったことは、たったの一度もありません。
しかし、本当に黙秘権の行使が不利益を招いたと感じたことも、たったの一度もありません。
捜査機関の圧力は、けっきょく、多くの場合、脅しあるいは虚言です。
黙秘権を行使している被疑者を怒鳴りつけている間に、ほかの客観的な証拠を集めたり、証明の方法を考えることに時間を使ったほうがいいと思います。
そうしなければ、真犯人をどんどん逃がしてしまうかもしれない。
そうしなければ、本当は犯人でない被疑者が屈服し、冤罪が生まれてしまうかもしれない。
ルールですから、そのルールがあることによって不都合な当事者も、そのルールを尊重しなければならないはずです。
「~してよい」というルールが、「~してもとやかく言われない」「~しても不利益を受けない」という意味を持ち続けられるように、明日も接見に行きます。
2014年10月5日日曜日
「ルール」
世の中にはたくさんのルールがあります。
ルールは時に「~してはいけない」というかたちをとり、我々の自由を制約します。
このルールは明確でなければいけない、というお話です。
明確な「~してはいけない」というルールは、逆に我々の自由を守る役割を果たします。
たとえば、「20歳未満の人はお酒を飲んではいけない」というルールがあります。
このルールによって、未成年はお酒を飲むことが禁じられました。
僕はお酒にずっと興味があったので、20歳でのルール解禁を心待ちにしたものです。
しかし、20歳になってしまえば、このルールによって、逆にお酒を飲む自由が保障されます。20歳以上であれば、体が悪かろうが、酒癖が悪かろうが、お酒を飲むこと自体は誰にも妨害されないのです。
「精神的に未成熟な人はお酒を飲んでいけない」というルールだったらどうでしょう。
妻から「あんたは中身が子供なんだからお酒はダメ」と、いわれのない迫害を受けるかもしれません。
本来お酒を飲んでまったく問題ない大人が、「僕はお酒を飲んでいいほど精神的に大人だろうか」と委縮してしまうかもしれません。
政府が、ある特定の団体に入っている人は未成熟だという通達を出して、自由を制約しようとするかもしれません。「特定の地域に住んでいる人」かもしれないし「特定の宗教を信仰している人」かもしれません。「特定の性別の人」「特定の政党の人」・・・解釈についての通達の名のもとに、個人の自由が侵されていくかもしれません。
明確なルールは、人の自由を守ります。
実はこの話は、法律家であれば全員が学んだことのある原則を言い換えたものでした。
「罪刑法定主義」といって、刑罰を科すときには法律による明確な根拠がなければいけない、という原則です。
刑法は、さまざまな行為を処罰の対象としています。しかし、それは同時に、書かれていないことは絶対に処罰の対象にならないことを示します。したがって、それが明確に書かれている限り、刑法は人の自由を守っているといえるのです。
ルールは時に「~してはいけない」というかたちをとり、我々の自由を制約します。
このルールは明確でなければいけない、というお話です。
明確な「~してはいけない」というルールは、逆に我々の自由を守る役割を果たします。
たとえば、「20歳未満の人はお酒を飲んではいけない」というルールがあります。
このルールによって、未成年はお酒を飲むことが禁じられました。
僕はお酒にずっと興味があったので、20歳でのルール解禁を心待ちにしたものです。
しかし、20歳になってしまえば、このルールによって、逆にお酒を飲む自由が保障されます。20歳以上であれば、体が悪かろうが、酒癖が悪かろうが、お酒を飲むこと自体は誰にも妨害されないのです。
「精神的に未成熟な人はお酒を飲んでいけない」というルールだったらどうでしょう。
妻から「あんたは中身が子供なんだからお酒はダメ」と、いわれのない迫害を受けるかもしれません。
本来お酒を飲んでまったく問題ない大人が、「僕はお酒を飲んでいいほど精神的に大人だろうか」と委縮してしまうかもしれません。
政府が、ある特定の団体に入っている人は未成熟だという通達を出して、自由を制約しようとするかもしれません。「特定の地域に住んでいる人」かもしれないし「特定の宗教を信仰している人」かもしれません。「特定の性別の人」「特定の政党の人」・・・解釈についての通達の名のもとに、個人の自由が侵されていくかもしれません。
明確なルールは、人の自由を守ります。
実はこの話は、法律家であれば全員が学んだことのある原則を言い換えたものでした。
「罪刑法定主義」といって、刑罰を科すときには法律による明確な根拠がなければいけない、という原則です。
刑法は、さまざまな行為を処罰の対象としています。しかし、それは同時に、書かれていないことは絶対に処罰の対象にならないことを示します。したがって、それが明確に書かれている限り、刑法は人の自由を守っているといえるのです。
登録:
投稿 (Atom)