逮捕や、勾留は、人の身体の自由を制圧する行為です。人の身体を拘束する行為です。
逮捕は犯罪です。ただし、警察官などが容疑者を捕まえるときには、特別に許されています。
一般には、悪いことをしたんだから、逮捕されて当然だと思われています。
しかし、それは違います。
証拠によって犯罪が証明され、裁判で有罪判決を受けるまでは、人は「無罪の推定」を受けます。
現実に、逮捕・勾留された人も、多くの人が不起訴(裁判を受けない)処分となっています。
逮捕された時には派手に報道される事件も、不起訴となっている事件は少なくありません。
逮捕・勾留される人が悪い人であるとは限らないのです。
では、なぜ逮捕・勾留が正当化されるんでしょうか。
逮捕・勾留は、一般的に犯罪の嫌疑があり、「罪証隠滅」や「逃亡」をする相当な疑いがあるときになされることになっています。わかりやすくいいかえると
「今は疑わしいだけで有罪とは限らないけども、釈放しておくと証拠を隠されたり逃げたりする可能性が高いから、拘束しておく」
ということです。
逆にいえば、そういう可能性が低ければ、家から取調べに通い、家から裁判に通うということで全く問題はありません。裁判で有罪とされれば、刑務所へ行って罪をつぐなえばいいわけです。
裁判で有罪判決を受けるまでは無罪の推定を受ける市民を拘束するのですから、拘束の条件は厳格でなければならないはずです。証拠隠滅や逃亡のおそれは、具体的なものでなければならないはずです。
しかし、現実はそうなっていません。
極めて抽象的な証拠隠滅のおそれや逃亡のおそれがあると認定されて、逮捕・勾留されています。そして、ずっと拘束されたまま裁判を受けるケースも多くあります。
「罪証隠滅や逃亡のおそれは読めない。けれども、一度されてしまったら取り返しがつかないので拘束するのだ」と、ある検察官(裁判官だったかもしれません)は言っていました。
私は、2年前、日弁連に派遣されたチームの一人として、イギリスの刑事事件の現状視察に行きました。イギリスでは、取調べを受ける前に弁護人の援助を受ける権利が保障されています。それを学びに行くことが目的でした。
もちろんその点は勉強になったのですが、私がほかに大きな衝撃を受けたのは、身体拘束の在り方でした。どんどん逮捕された容疑者が釈放されていくのです。逮捕された容疑者のうち、拘束されたまま裁判を受けることになるのは、10パーセント程度だということでした。
そして、ある裁判官はこう言っていました。
「罪証隠滅や逃亡のおそれは読めない。将来のことだからね。わからないからこそ、釈放するのが原則なんだ。もし何かあったら、その時にペナルティを課せばいい」
実際に罪証隠滅や逃亡といった事態が起こるのは、多くはないそうです。
どちらが、「無罪の推定」にそぐう考え方でしょうか。
私は弁護人としてたくさんの事件にかかわりました。本当に、不必要な拘束をされているという事件を多く経験しました。そして、そのことを全く理解していない、検察官や裁判官の対応を目にしました。
身体拘束の現状は変わらなければなりません。
個人的には、数ある刑事司法の問題点の中で、この問題が最も大きな課題ではないかと思っています。無用な逮捕、勾留がなくなるだけで、冤罪は減ると思います。無駄な身体拘束がなくなって初めて、市民一人一人が、公平な裁判を受ける権利を享受できると思います。
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2014年11月19日水曜日
2014年11月10日月曜日
「ルール その2」
世の中にはたくさんのルールがあります。
時に、ルールは、「~してよい」という形をとることもあります。
先日は、「~してはいけない」ルールについてお話ししましたが、逆のルールについて思うところをお話ししたいと思います。
本来的に、人は自由です。
近代国家において、人は、自由な個人であることが想定されています。
国家によって生かされているわけではありません。
ルールによって生かされているわけでもありません。
ですから、いちいち「~してよい」なんて言われなくても、そんなおせっかいをいわれなくても、人は基本的に自由なのです。
(ルールが世界を作っているスポーツやゲームは違いますが)
では、そういう世界の中で「~してよい」というルールの存在意義は何なのか。
私は、そのようなルールが意味を持つためには、「~してもとやかく言われない」「~しても不利益を受けない」という意味を持たなければならないと思っています。
刑事事件のルールを定めた刑事訴訟法には、「黙秘権」という権利が定められています。
黙秘権の意義や正当性、重要性についてここで述べることはしません。
この権利は、簡単にいえば、「取調べや、裁判で、黙っていてよい」というルールです。
しかし、これを文字通りに考えれば、これはあまりにも当然です。人の口に手を突っ込んでも言葉は出てきませんから、黙りたかったら、本人が黙ればいいのです。「黙っていてよい」などと言われなくても、黙ることは少なくとも物理的には可能です。
ですから、「黙っていてよい」というルールは、「黙っていてもとやかくいわれない」「黙っていることによって不利益を受けない」という意味を持たなければなりません。
しかし、現実の事件では、それとは異なった扱いを受けることがあります。
捜査機関は、取調べのはじめに「取り調べでは、黙っていてもいい」と告知しなければならないと決められています。実際、告知は行われます。しかし、多くの捜査官は、そう言った舌の根も乾かぬうちに、「黙秘していると不利になるぞ」「黙っていると反省が見えないから重い刑になる」などとまくし立てます。黙っていることに、とやかく言い続けます。不利益になりかねないと示唆します。
私はしばしば黙秘権の行使を防御戦術として選択します。そのような場合、捜査機関が黙秘に対して上のような圧力をかけてこなかったことは、たったの一度もありません。
しかし、本当に黙秘権の行使が不利益を招いたと感じたことも、たったの一度もありません。
捜査機関の圧力は、けっきょく、多くの場合、脅しあるいは虚言です。
黙秘権を行使している被疑者を怒鳴りつけている間に、ほかの客観的な証拠を集めたり、証明の方法を考えることに時間を使ったほうがいいと思います。
そうしなければ、真犯人をどんどん逃がしてしまうかもしれない。
そうしなければ、本当は犯人でない被疑者が屈服し、冤罪が生まれてしまうかもしれない。
ルールですから、そのルールがあることによって不都合な当事者も、そのルールを尊重しなければならないはずです。
「~してよい」というルールが、「~してもとやかく言われない」「~しても不利益を受けない」という意味を持ち続けられるように、明日も接見に行きます。
時に、ルールは、「~してよい」という形をとることもあります。
先日は、「~してはいけない」ルールについてお話ししましたが、逆のルールについて思うところをお話ししたいと思います。
本来的に、人は自由です。
近代国家において、人は、自由な個人であることが想定されています。
国家によって生かされているわけではありません。
ルールによって生かされているわけでもありません。
ですから、いちいち「~してよい」なんて言われなくても、そんなおせっかいをいわれなくても、人は基本的に自由なのです。
(ルールが世界を作っているスポーツやゲームは違いますが)
では、そういう世界の中で「~してよい」というルールの存在意義は何なのか。
私は、そのようなルールが意味を持つためには、「~してもとやかく言われない」「~しても不利益を受けない」という意味を持たなければならないと思っています。
刑事事件のルールを定めた刑事訴訟法には、「黙秘権」という権利が定められています。
黙秘権の意義や正当性、重要性についてここで述べることはしません。
この権利は、簡単にいえば、「取調べや、裁判で、黙っていてよい」というルールです。
しかし、これを文字通りに考えれば、これはあまりにも当然です。人の口に手を突っ込んでも言葉は出てきませんから、黙りたかったら、本人が黙ればいいのです。「黙っていてよい」などと言われなくても、黙ることは少なくとも物理的には可能です。
ですから、「黙っていてよい」というルールは、「黙っていてもとやかくいわれない」「黙っていることによって不利益を受けない」という意味を持たなければなりません。
しかし、現実の事件では、それとは異なった扱いを受けることがあります。
捜査機関は、取調べのはじめに「取り調べでは、黙っていてもいい」と告知しなければならないと決められています。実際、告知は行われます。しかし、多くの捜査官は、そう言った舌の根も乾かぬうちに、「黙秘していると不利になるぞ」「黙っていると反省が見えないから重い刑になる」などとまくし立てます。黙っていることに、とやかく言い続けます。不利益になりかねないと示唆します。
私はしばしば黙秘権の行使を防御戦術として選択します。そのような場合、捜査機関が黙秘に対して上のような圧力をかけてこなかったことは、たったの一度もありません。
しかし、本当に黙秘権の行使が不利益を招いたと感じたことも、たったの一度もありません。
捜査機関の圧力は、けっきょく、多くの場合、脅しあるいは虚言です。
黙秘権を行使している被疑者を怒鳴りつけている間に、ほかの客観的な証拠を集めたり、証明の方法を考えることに時間を使ったほうがいいと思います。
そうしなければ、真犯人をどんどん逃がしてしまうかもしれない。
そうしなければ、本当は犯人でない被疑者が屈服し、冤罪が生まれてしまうかもしれない。
ルールですから、そのルールがあることによって不都合な当事者も、そのルールを尊重しなければならないはずです。
「~してよい」というルールが、「~してもとやかく言われない」「~しても不利益を受けない」という意味を持ち続けられるように、明日も接見に行きます。
2014年10月30日木曜日
「裁判員裁判のインパクト」
裁判員裁判に関する論考を期待した方、ごめんなさい。
再び、イベントの宣伝です。
再び、イベントの宣伝です。
| 平成26年11月3日(月・祝) 13:00~16:00 専修大学 神田校舎 7号館3階 731教室 シンポジウム「裁判員裁判のインパクト -実施5年後の現状と今後のあり方-」 が開催されます。 http://www.senshu-u.ac.jp/fsis/gakubunews/_12327.html このイベントは、専修大学の法社会学の授業の一コマとして行われるものです。 当日専修大学は学園祭のようで、それに合わせて一般の方も参加できるよう、授業を開放して拡大授業を行うということです。 私は「裁判員裁判を担当して -司法へのインパクト」という題目で簡単な講演を行い、その後、実際に裁判員を経験された市民の方とディスカッションを行います。 一般公開の講義ですので、ご興味のある方はぜひおこしください。 裁判員裁判が市民社会・司法にどのようなインパクトを与えたか、また与えるべきかは、当然私にも持論があります。 しかし、私が弁護士になった時には、すでに裁判員裁判はありました。 裁判員裁判開始前の裁判は、厳密には知りません。裁判員裁判の前は、今まで以上に、日本の刑事裁判は「絶望的」だと聞いていました。その絶望を味わったこともありません。 ですから、今回のテーマで講演をするには、私には役者不足なのではないかと、本音のところは思わないではありません。 しかし、先輩から「昔はこうだった」という話をたくさん聞いてきました。裁判員裁判以外の事件では、従来通りに近い裁判が今でも行われています。そういった事件も、もちろんたくさん経験してきました。旧態依然とした扱いを受け、憤ったこともありました。 そして、裁判員裁判の法廷をたくさん経験してきました。同世代の弁護士としては、もっとも多い部類だと思います。そのどれもが、ワクワクする法廷でした。戦いがいのある法廷でした。 そういった経験を踏まえながら、イベントの趣旨に沿った役割を果たしてこようと思います。 | |
2014年10月24日金曜日
「ホームページリニューアル」
当事務所のホームページをリニューアルしました!
http://www.t-defender.jp/
これまでのホームページは,5年ほど前に作成されたものでした。
僕自身,前のホームページは前のホームページで味があって好きだったのですが,見やすさや内容など,一般の方々にご覧いただくには改善点が多くありました。
大幅なリニューアル作業をこの間進めており,昨日の夜くらいから,一般公開しております。
当事務所は,今後も,あらゆる刑事事件に精通した事務所として,すべての依頼人のために全力を尽くします。
また,変わらず,複雑困難事件や裁判員裁判事件も積極的に担っていきます。
当事務所を今後ともよろしくお願い申し上げます。
http://www.t-defender.jp/
これまでのホームページは,5年ほど前に作成されたものでした。
僕自身,前のホームページは前のホームページで味があって好きだったのですが,見やすさや内容など,一般の方々にご覧いただくには改善点が多くありました。
大幅なリニューアル作業をこの間進めており,昨日の夜くらいから,一般公開しております。
当事務所は,今後も,あらゆる刑事事件に精通した事務所として,すべての依頼人のために全力を尽くします。
また,変わらず,複雑困難事件や裁判員裁判事件も積極的に担っていきます。
当事務所を今後ともよろしくお願い申し上げます。
2014年10月20日月曜日
「法科大学院」
私は「法科大学院」の出身です。
大学卒業後、法律家になるための専門的知見を養う学校です。
現在の制度は、原則としてこの学校を卒業した後、司法試験をうけることになっています。
この法科大学院、しばらく前までは存在しませんでした。
2004年に第1期生が入学し、ようやく10年が経過したという段階です。
法科大学院制度の是非については議論があります。
弁護士を含む法曹人口の増加の問題と関連して、反対論も少なくありません。
法科大学院の志望者が少なくなっているという現状もあります。
私自身も、この問題に関する意見を持っています。
私は、法科大学院制度には賛成です。
法科大学院の教育は、より優れた、豊かな考えを持った法曹を生み出す土壌になると思っています。
もちろん、議論に答えは出ていません。
法科大学院制度がどうなっていくかは、今後も議論され、検討されるべき問題でしょう。
しかし、ひとつだけ、私にも確実に言えることがあります。
それは、法科大学院がなければ、今の私はいないということです。
私は、法科大学院の充実した教育によって生み出された弁護士です。
法学部の授業や予備校の授業も経験しました。
法科大学院の教育は、それらとは比較にならないほどすばらしいものでした。
私の法的知識・能力のほどんどは、法科大学院で養われたものでした。
実務家にも触れ、法律家になることの社会的な意味について考えさせられました。
自分が優秀な弁護士だとうぬぼれるつもりはありませんが、少なくとも、刑事弁護に対する信念は人一倍強いと自負しています。そのような「心」を育てたのも、法科大学院でした。
このような体験を語る機会をいただけることになりました。
平成26年10月25日午後1時から
明治大学・駿河台キャンパス・リバティタワー2階1022教室にて
「今,なぜロースクールで学ぶのか 法科大学院がわかる会」
というイベントに登壇します。
http://lskyokai.jp/event/20141014.html
このイベントは、司法試験をめざす学部生向けのイベントです。
司法試験を目指す学部生は、「予備試験」などの選択も与えられる中、進路について悩んでいる方が多いかと思います。そういう学部生に、法科大学院の魅力を伝えるイベントです。
私は、法科大学院時代の恩師というべき刑事訴訟法の先生と、その教育を受けた生徒2名(私含む)での対談を行います。
短い時間ですが、法科大学院教育の魅力について伝えられればと思っています。
また、後半の部において、出身である一橋大学法科大学院のブースにて、質問を受け付けます。
このブログをご覧の皆様に、司法試験志望の学生がいらっしゃいましたら、ぜひお越しください。
ご家族ご友人に司法試験志望者の方がいらっしゃる方、ぜひおすすめください。
大学卒業後、法律家になるための専門的知見を養う学校です。
現在の制度は、原則としてこの学校を卒業した後、司法試験をうけることになっています。
この法科大学院、しばらく前までは存在しませんでした。
2004年に第1期生が入学し、ようやく10年が経過したという段階です。
法科大学院制度の是非については議論があります。
弁護士を含む法曹人口の増加の問題と関連して、反対論も少なくありません。
法科大学院の志望者が少なくなっているという現状もあります。
私自身も、この問題に関する意見を持っています。
私は、法科大学院制度には賛成です。
法科大学院の教育は、より優れた、豊かな考えを持った法曹を生み出す土壌になると思っています。
もちろん、議論に答えは出ていません。
法科大学院制度がどうなっていくかは、今後も議論され、検討されるべき問題でしょう。
しかし、ひとつだけ、私にも確実に言えることがあります。
それは、法科大学院がなければ、今の私はいないということです。
私は、法科大学院の充実した教育によって生み出された弁護士です。
法学部の授業や予備校の授業も経験しました。
法科大学院の教育は、それらとは比較にならないほどすばらしいものでした。
私の法的知識・能力のほどんどは、法科大学院で養われたものでした。
実務家にも触れ、法律家になることの社会的な意味について考えさせられました。
自分が優秀な弁護士だとうぬぼれるつもりはありませんが、少なくとも、刑事弁護に対する信念は人一倍強いと自負しています。そのような「心」を育てたのも、法科大学院でした。
このような体験を語る機会をいただけることになりました。
平成26年10月25日午後1時から
明治大学・駿河台キャンパス・リバティタワー2階1022教室にて
「今,なぜロースクールで学ぶのか 法科大学院がわかる会」
というイベントに登壇します。
http://lskyokai.jp/event/20141014.html
このイベントは、司法試験をめざす学部生向けのイベントです。
司法試験を目指す学部生は、「予備試験」などの選択も与えられる中、進路について悩んでいる方が多いかと思います。そういう学部生に、法科大学院の魅力を伝えるイベントです。
私は、法科大学院時代の恩師というべき刑事訴訟法の先生と、その教育を受けた生徒2名(私含む)での対談を行います。
短い時間ですが、法科大学院教育の魅力について伝えられればと思っています。
また、後半の部において、出身である一橋大学法科大学院のブースにて、質問を受け付けます。
このブログをご覧の皆様に、司法試験志望の学生がいらっしゃいましたら、ぜひお越しください。
ご家族ご友人に司法試験志望者の方がいらっしゃる方、ぜひおすすめください。
2014年10月11日土曜日
「寄稿」
今月発売の法学セミナー11月号に寄稿しました。
http://www.amazon.co.jp/%E6%B3%95%E5%AD%A6%E3%82%BB%E3%83%9F%E3%83%8A%E3%83%BC-2014%E5%B9%B4-11%E6%9C%88%E5%8F%B7-%E9%9B%91%E8%AA%8C/dp/B00NQBJXZS/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1412995900&sr=8-1&keywords=%E6%B3%95%E5%AD%A6%E3%82%BB%E3%83%9F%E3%83%8A%E3%83%BC
法学部の学生や、法科大学院の学生を主な対象として、刑事弁護の魅力を語る企画です。
大御所たちに混じって、私は刑事弁護士を志した体験談のようなものを投稿させていただいています。
このブログのはじめに私がなぜ刑事弁護をやるのかということについて書きましたが、その原点となるエピソードをつづっています。
私の投稿よりもっと読みごたえがあるのが、その他そうそうたる執筆陣による寄稿です。
当事務所の前田弁護士、坂根弁護士も執筆しております。
刑事弁護の魅力が十分に伝わる特集になっています。
ご興味のある方は、ぜひ手にとってご覧ください。
http://www.amazon.co.jp/%E6%B3%95%E5%AD%A6%E3%82%BB%E3%83%9F%E3%83%8A%E3%83%BC-2014%E5%B9%B4-11%E6%9C%88%E5%8F%B7-%E9%9B%91%E8%AA%8C/dp/B00NQBJXZS/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1412995900&sr=8-1&keywords=%E6%B3%95%E5%AD%A6%E3%82%BB%E3%83%9F%E3%83%8A%E3%83%BC
法学部の学生や、法科大学院の学生を主な対象として、刑事弁護の魅力を語る企画です。
大御所たちに混じって、私は刑事弁護士を志した体験談のようなものを投稿させていただいています。
このブログのはじめに私がなぜ刑事弁護をやるのかということについて書きましたが、その原点となるエピソードをつづっています。
私の投稿よりもっと読みごたえがあるのが、その他そうそうたる執筆陣による寄稿です。
当事務所の前田弁護士、坂根弁護士も執筆しております。
刑事弁護の魅力が十分に伝わる特集になっています。
ご興味のある方は、ぜひ手にとってご覧ください。
2014年10月5日日曜日
「ルール」
世の中にはたくさんのルールがあります。
ルールは時に「~してはいけない」というかたちをとり、我々の自由を制約します。
このルールは明確でなければいけない、というお話です。
明確な「~してはいけない」というルールは、逆に我々の自由を守る役割を果たします。
たとえば、「20歳未満の人はお酒を飲んではいけない」というルールがあります。
このルールによって、未成年はお酒を飲むことが禁じられました。
僕はお酒にずっと興味があったので、20歳でのルール解禁を心待ちにしたものです。
しかし、20歳になってしまえば、このルールによって、逆にお酒を飲む自由が保障されます。20歳以上であれば、体が悪かろうが、酒癖が悪かろうが、お酒を飲むこと自体は誰にも妨害されないのです。
「精神的に未成熟な人はお酒を飲んでいけない」というルールだったらどうでしょう。
妻から「あんたは中身が子供なんだからお酒はダメ」と、いわれのない迫害を受けるかもしれません。
本来お酒を飲んでまったく問題ない大人が、「僕はお酒を飲んでいいほど精神的に大人だろうか」と委縮してしまうかもしれません。
政府が、ある特定の団体に入っている人は未成熟だという通達を出して、自由を制約しようとするかもしれません。「特定の地域に住んでいる人」かもしれないし「特定の宗教を信仰している人」かもしれません。「特定の性別の人」「特定の政党の人」・・・解釈についての通達の名のもとに、個人の自由が侵されていくかもしれません。
明確なルールは、人の自由を守ります。
実はこの話は、法律家であれば全員が学んだことのある原則を言い換えたものでした。
「罪刑法定主義」といって、刑罰を科すときには法律による明確な根拠がなければいけない、という原則です。
刑法は、さまざまな行為を処罰の対象としています。しかし、それは同時に、書かれていないことは絶対に処罰の対象にならないことを示します。したがって、それが明確に書かれている限り、刑法は人の自由を守っているといえるのです。
ルールは時に「~してはいけない」というかたちをとり、我々の自由を制約します。
このルールは明確でなければいけない、というお話です。
明確な「~してはいけない」というルールは、逆に我々の自由を守る役割を果たします。
たとえば、「20歳未満の人はお酒を飲んではいけない」というルールがあります。
このルールによって、未成年はお酒を飲むことが禁じられました。
僕はお酒にずっと興味があったので、20歳でのルール解禁を心待ちにしたものです。
しかし、20歳になってしまえば、このルールによって、逆にお酒を飲む自由が保障されます。20歳以上であれば、体が悪かろうが、酒癖が悪かろうが、お酒を飲むこと自体は誰にも妨害されないのです。
「精神的に未成熟な人はお酒を飲んでいけない」というルールだったらどうでしょう。
妻から「あんたは中身が子供なんだからお酒はダメ」と、いわれのない迫害を受けるかもしれません。
本来お酒を飲んでまったく問題ない大人が、「僕はお酒を飲んでいいほど精神的に大人だろうか」と委縮してしまうかもしれません。
政府が、ある特定の団体に入っている人は未成熟だという通達を出して、自由を制約しようとするかもしれません。「特定の地域に住んでいる人」かもしれないし「特定の宗教を信仰している人」かもしれません。「特定の性別の人」「特定の政党の人」・・・解釈についての通達の名のもとに、個人の自由が侵されていくかもしれません。
明確なルールは、人の自由を守ります。
実はこの話は、法律家であれば全員が学んだことのある原則を言い換えたものでした。
「罪刑法定主義」といって、刑罰を科すときには法律による明確な根拠がなければいけない、という原則です。
刑法は、さまざまな行為を処罰の対象としています。しかし、それは同時に、書かれていないことは絶対に処罰の対象にならないことを示します。したがって、それが明確に書かれている限り、刑法は人の自由を守っているといえるのです。
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